Fairy Tale ８
シンがいなくなって、もう随分経っていた。この地下の檻でも、わずかに射す光で昼夜の区別くらいはつく。
七日。彼がもう二度とここへ帰って来ないと確信できるだけの時間は、十分に経っていた。
喉が渇いた。
シンが汲み置いていてくれた水は、とうに飲みつくしてしまっていた。
這って行けば、地下水脈の小川まで行くことは出来たけれど、アスランはもうそれを放棄してしまっていた。
シンが帰って来ないのに。ここで多少命を存えて、何の意味があるというのだろう。
この体も、命も。すべて、シンのものだった。
だから。
シンに、食べてもらえなかった。
それが、酷い後悔になってアスランを襲っていた。
彼が、その望みを決して叶えてくれないということは、十分に承知していたはずだった。
でも。
何故、彼が出て行く前に、食べてもらわなかったんだろう。
獣の姿のシンならば、そう時間もかからずに、アスランを食い尽くしてくれたろうに。
シンに、食べて欲しかった。
あの牙に噛み砕かれて、全部、彼のものになりたかった。
ここで、ひとり。
死んでいくのが嫌だった。
涙で視界がぐしゃぐしゃに歪み、嗚咽は獣の唸りのように喉から迸る。
こうして。
泣きながら、ひとり逝くのかと。
その哀しみが、更にアスランを惨めにさせた。
シン。
シン。
あたたかな毛皮。真っ赤な瞳。大きな濡れた舌で、体中をやさしく舐めてくれた。
いとしい思い出は、しかしアスランを慰めることはなく。
ただ、絶望を深くする。
自分が、そう仕向けたというのに。
きっと、彼は幸せになれるというのに。
自分のために泣く自分が、更に惨めで、涙が止まらない。
この身に食い込む彼の牙を思う。
その幸福を、想ってしまう。
自分の浅ましさが、悲しくて。
アスランは、まるで子供のように泣いていた。
力の尽きかけた喉は、もうかすかなうめきしか上げることが出来なかったけれど。
「ぅ・・・・く・・・・・」
地下の小川のせせらぐ音。
アスランの泣く、小さな声。
それだけの響く暗い檻。
そこに。
アオオオオォォォォーーーーーーン！
獣の咆哮が、鳴り響いた。
怒号と悲鳴、叫び声。
何かを打ち合わせるような音。
そうして。
黒い獣が姿をあらわす。
真っ赤な瞳がアスランを見下ろす。
その獣は、アスランの頬に、一度だけ、鼻先を寄せて。
それから、弱り切ったその体を、細心の注意を払って咥え上げた。
鋭いはずの牙が、アスランの想像とは違う優しさで体を支えて。
そのまま、疾風の勢いで走り出す。
アスランは、激しい揺れに意識を失いかけながら。
それでも、動く左手で、確かめるようにシンの黒い毛皮を掴んだ。
それは確かに、アスランの愛した獣の、あたたかな毛皮だった。
とにかく逃げ切る意図の激しい走りに意識を失っていたアスランは、びしゃりと濡れ感触に目が覚めた。
「うわごめんなさい！」
目を開ければ、赤い光。
「コケた！また汲んで来る！」
それはすぐに見えなくなって。
見えたのは、恐ろしいほどに青い空だった。
今のアスランの視力でもわかる、高い、高い空だった。
髪を揺らす風。
背中には、日に温まった石の感触。
聞こえるのは水の音。
地下水脈のそれよりも、ずっと、大きい。
ここは・・・河原、だろうか。
「水！」
すぐに戻ってきたシンは、両手を杯に水を汲んでいて、それをアスランの口元に当てた。
流れ込んで来た水は、地下のそれと違って、どこかぬるく、甘い。
「シ・・・」
「何か食べるもの探してくる！えっと・・・肉はダメでも魚は平気？葉っぱとかの方がいい！？」
シンの声が、がんがんと頭に響く。
言っていることは聞こえているが、思考が追いつかない。
「シ、ン・・・・」
だから、アスランはただ、左手を伸ばそうとした。
力を失ったそれは、わずかにしか動かなかったけれど、シンはすぐに、それをしっかりと握ってくれた。
あたたかな、シンの手のひらだった。
「あ・・・来る途中で何か赤いの生ってた。食えるかちょっと見てくるよ！」
そうしてすぐに離れていこうとする手を、アスランは必死に繋ぎ止めた。
「アスラン？」
そうして、シンの手を、そっと、抱き込んで。
声を殺して、泣いた。
「本当に、俺は、いつも・・・死にぞこなう、な」
「そういうこと言うなよ！」
やっと泣きやんだアスランが、赤く腫れた目を上げてくれて、シンはほっと息をついた。
こんなふうに、泣いたりするアスランを見るのは初めてで、だから怖くて。
だから、悲しくて。
「・・・・ああ、そうだな。悪かった。嬉しいよ」
でも、そういってもらえると、嬉しくて。
そうして、申し訳なくて。
「良かった、ほんと、生きてて。ごめん。置いて行って。俺・・・・」
今度はシンが泣きだした。
「ごめんなさい・・・・」
そのシンの涙を拭おうと、アスランの左手がひくりと動くけれど、それはどうしても持ち上がらなくて。
代わりに、握り合ったままの指に、力を込める。
「お前は・・・仲間のところに、戻ったのか、と・・・思ったよ」
「戻った。けど、あんたのこと、俺すっかり忘れてて・・・」
うぐうぐと泣くシンを慰めたくて、しかしアスランには、そんな力は残っていない。
だからアスランは、繋ぎ合ったシンの右手にキスを贈った。
繰り返し、何度も。
思い出してくれて、嬉しかった。嬉しすぎて、心が悲鳴を上げそうだった。
よく見ると、傷だらけのシンの手と、体。
こんな危険を冒してまで、自分を迎えに来てくれたことが、胸が潰れそうなほど嬉しかった。
また、涙がこぼれて。それを、シンの手に擦り付けて。
しかしアスランは、無理やりに嗄れた声を絞り出した。
「でも、お前は・・・そのまま、忘れているべきだったんだ」
「なんでだよ！」
こんなことを言えば、シンが激昂することなどわかりきっていた。
それでも。
「俺がいると・・・お前は、仲間のところへ帰れないんだろう？」
ケルベロスは、ヒトを嫌う。
自分を連れたシンが、仲間のもとへ戻れるわけはない。
「いい。いらない。仲間より、あんたがいい」
案の定、シンはそう言って、アスランの頬を涙ごと舐めてくれるけれど。
その舌のあたたかさは、とても嬉しいけれど。
でも。
アスランはそれが哀しくて。
それでもやはり嬉しくて。
どうしようもなくて、また、泣いた。